自薦他薦を問わず OP_RETURN記録の報告をして相互に鑑賞致しましょう。手動承認により掲載されないことがありますので御了承下さい。
OP_RETURN報告
コメント
“OP_RETURN報告” への159件のフィードバック
-
Jose Mujica:We need opposing views as much as we need bread.
https://mempool.space/ja/tx/0499a19e97dd5dd771583620481e33aa58ebd67d35c312eae6f239b92c643f23
南米ウルグアイの元大統領ホセ・ムヒカさんの金言をOP_RETURNで全世界に発信しました。
「我々にはパンと同じくらい反対意見が必要なのだ」
ウルグアイは、20世紀前半には南米における安定した民主主義国家として知られていました。第二次世界大戦に直接巻き込まれることもなく、農産物や食肉の輸出によって豊かな貿易収益を得ていた時期には、国民生活も比較的安定し、教育や医療制度も整備されていました。そのため一時は「南米のスイス」と呼ばれるほどに、民主制と福祉国家のモデルのように賞賛されたのです。しかし戦後になると状況は一変します。ヨーロッパ諸国が次第に復興し、自国での生産を拡大するにしたがって、ウルグアイの主要な輸出品に対する需要が急速に縮小しました。その結果、経済は深刻な不況に陥り、財政は逼迫し、これまでの福祉政策も維持が困難になります。社会的不平等が拡大し、政治的混乱が生じ、ついには民主主義の後退へとつながっていきました。
そのような激動の時代に、ホセ・ムヒカさんは若者として立ち上がりました。彼はウルグアイに広がる格差や、強権的な政治体制に強い疑問を抱き、変革を求める道を選びます。ムヒカさんが参加したのは、当時「トゥパマロス」と呼ばれた都市型ゲリラ組織でした。この組織は既存の権力構造に挑戦し、社会の不公正を是正するために活動していました。ムヒカさん自身も、時には武装闘争という形で政府に抗議の声を上げました。しかしその活動は、当然ながら国家権力の厳しい弾圧を招くことになります。1972年、彼は逮捕され、軍事独裁政権下で13年という長い収監生活を強いられることになりました。その間、極めて過酷な環境に置かれ、孤独や拷問にも耐えざるを得なかったと伝えられています。
それでも彼は心を折ることなく、むしろその経験から深い哲学的な視点を獲得していきます。49歳で釈放されたとき、ムヒカさんはもはや若き日のゲリラ闘士ではありませんでした。彼は過去のように武器を手に取るのではなく、合法的な民主主義の制度を用いて社会を変革する道を選び直したのです。力と力の衝突ではなく、意見と意見の議論という道を選んだのです。民衆に政治的意見を提示し、選挙を通じて議会に進出し、議員として活動を始めた彼は、単に自分の主張を押し通すのではなく、あえて「反対意見に耳を傾ける」姿勢を貫きました。討論の中で異論は避けられないものであり、むしろ健全な政治にとって不可欠であると考えたのです。彼の言葉「我々にはパンと同じくらい反対意見が必要なのだ」は、まさにその思想を凝縮した表現でした。パンが人間の生存に不可欠であるように、社会や政治の成長には反対意見が不可欠だという深い信念がそこに込められているのです。
この姿勢は、彼が単なる政治的スローガンではなく、自らの人生の試練を通じて得た実感から語られた言葉である点に重みがあります。長期にわたる収監生活で彼は一方的な支配の恐ろしさを体験しました。だからこそ、多様な声を許容し合うことこそが自由を守る道だと悟ったのです。酷い目にあって、憎しみを募らせるのではなく、どうしてそうなってしまうのか、深い考察を続けていたのです。議会活動でも彼は、自分と異なる意見の存在を敵視するのではなく、むしろ対話を通じて現実的な解決を模索しました。その柔軟さは、後に彼が大統領となったときの政策や政治姿勢にも色濃く反映されています。
現代の世界を見渡すと、このムヒカさんの金言はますます重みを増しているように思われます。特にアメリカ政治においては、保守とリベラルの対立が激化し、互いの意見を全否定するような分断が深刻な社会問題となっています。日本も含めて多くの国で既存の議論を全否定する「ポピュリスト政党」が躍進し続けています。妥協や合意形成が困難になり、社会全体の統合が脅かされている状況において、反対意見を「不要な妨害」とみなすのではなく「社会に欠かせない糧」として受け入れる姿勢は極めて重要です。ムヒカさんの言葉は、単なる比喩ではなく、民主主義を持続させるための根源的な知恵を提示しています。
我々がパンを食べて生きるように、反対意見を受け入れ議論を重ねることで社会は呼吸し、進歩していくのです。だからこそ今の時代にこそ、ムヒカさんの言葉は輝きを増していると言えるでしょう。
“We need dissenting opinions as much as we need bread.”
In the first half of the twentieth century, Uruguay was known as one of the most stable democracies in South America. It was spared from the direct devastation of the Second World War, and during the years when agricultural products and meat exports brought abundant trade revenues, the lives of ordinary citizens were relatively secure. Education and healthcare systems were well developed, and the country earned international praise as a model of both democracy and the welfare state. At one time, it was even referred to as the “Switzerland of South America.”
But after the war, the situation changed drastically. As European nations recovered and expanded their own domestic production, demand for Uruguay’s main exports rapidly declined. This led to a severe economic downturn, strained public finances, and made it increasingly difficult to maintain welfare policies. Social inequality widened, political unrest intensified, and eventually democracy itself began to erode.
It was during this turbulent period that José Mujica rose up as a young man. Deeply troubled by the widening social gap and the authoritarian tendencies of the government, he chose the path of resistance and change. Mujica joined an urban guerrilla organization known as the “Tupamaros,” which sought to challenge existing power structures and correct social injustices. Mujica himself sometimes took part in armed resistance, raising his voice against the government through direct action. Yet these activities inevitably brought harsh repression from state authorities. In 1972, he was arrested and subjected to 13 long years of imprisonment under the military dictatorship. During this time, he endured extremely harsh conditions, marked by isolation and, as reports suggest, even torture.
Despite this ordeal, Mujica did not break. On the contrary, he drew from the experience a deep, philosophical perspective. By the time he was released at the age of 49, he was no longer the same young guerrilla fighter he once had been. He chose not to return to the path of armed struggle but instead to embrace democratic institutions as the legitimate means of transforming society. Rather than clashing with force, he turned to dialogue, debate, and the presentation of political ideas to the public. Entering parliament through elections, he began working as a legislator. And rather than simply imposing his own views, he deliberately adopted an attitude of listening to opposing opinions. For him, disagreements in debate were not obstacles but essential elements of healthy politics. His words—“We need dissenting opinions as much as we need bread”—captured this philosophy. Just as bread is indispensable to human survival, dissent is indispensable to the growth of society and politics.
What gives this conviction even greater weight is that it was not merely a political slogan, but a truth forged through the hardships of his own life. Mujica had experienced firsthand the terror of unilateral rule during his years of imprisonment. He understood that only by allowing a diversity of voices to coexist could freedom be preserved. Instead of letting bitterness and hatred consume him after such harsh treatment, he continued to reflect on why such conditions arise and how they might be prevented. Even in his legislative career, he did not treat opposing opinions as enemies but sought realistic solutions through dialogue. This openness and flexibility later became hallmarks of his policies and political stance as president.
Looking at the world today, Mujica’s maxim seems to carry even greater weight. In the United States, for example, the divide between conservatives and liberals has deepened into a form of polarization where each side often seeks to completely delegitimize the other. In many countries, including Japan, populist parties that reject established debates altogether continue to rise. As compromise and consensus-building become ever more difficult, the cohesion of entire societies is put at risk. In such circumstances, the willingness to accept dissent not as “unnecessary obstruction” but as “nourishment essential to society” is more vital than ever. Mujica’s words are not a mere metaphor, but a fundamental wisdom for sustaining democracy.
Just as we eat bread to live, so too must we accept opposing views and engage in debate in order for society to breathe and move forward. That is why, in our present age, Mujica’s words shine with even greater brilliance.
-
Jose Mujica:Young people need time to fall in love.
https://mempool.space/ja/tx/10dbbdefc74cd41ccb573a017c667fbd44adce0a55ece495a86b0a4c1a1afc98
南米ウルグアイの元大統領ホセ・ムヒカさんの金言をOP_RETURNで全世界に発信しました。
「若者には恋をする時間が必要だ」
気候変動の国際会議のスピーチで有名なウルグアイ大統領のムヒカさんですが、この言葉は政治家とは思えないような、ロマンチックな、詩人のような言葉ですね。しかしこれは、ムヒカさんの個人的な人生経験に根差した非常に重い言葉なのです。
ムヒカさんは、37歳の頃から50歳になるまで政治犯として収監されていました。
ウルグアイは20世紀前半、第二次大戦に巻き込まれず、貿易取引が多く民主制と経済的繁栄を謳歌し、「南米のスイス」とまで呼ばれていましたが、第二次大戦が終わって欧州の復興が進むと貿易需要が激減し、極度の不況に陥り、国民福祉と民主制が後退してしまいました。
ホセ・ムヒカさんは、若い頃にウルグアイで社会的不平等や独裁体制に反対するため、ゲリラ組織であるトゥパマロスのメンバーとして活動し、民主化を目指した闘争に身を投じていました。しかし、その活動が原因で1972年に逮捕され、軍事独裁政権下で13年もの長期収監生活を送ることになります。
同じ時期に、恋人であるルシア・トポランスキーさんもまた、同じくトゥパマロスの一員として活動し、やはり逮捕・収監されていました。二人はともに過酷な監獄生活を余儀なくされ、拷問や孤独な日々を過ごしながらも、祖国の未来のために信念を貫きました。しかし、長い収監生活のために、恋人や夫婦として共に過ごす時間はほとんどなく、子どもを授かる機会も失われました。ムヒカさんとルシアさんは、その後政治家としての道を歩み、社会の不平等是正や貧困削減のための政策を推し進めました。ウルグアイの社会改革や福祉拡充において一定の成果を上げたことは、彼らにとって大きな達成感をもたらしたでしょう。
しかし、その一方で、二人は人生の中で失われた「恋人としての時間」「新婚夫婦としての時間」や「子育ての機会」を取り戻すことができませんでした。そのためムヒカさんは、自らの人生経験から、「若者は恋をしなさい」という金言を残しているのです。
この言葉は、独裁政権で政治犯の検挙が行われていたウルグアイだけにあてはまる言葉ではありません。現代の他の国々の若者にも当てはまるでしょう。勿論日本の若者だってそうです。軍事独裁政権下にあるわけではありませんが、現代日本の若者だって、「恋人の時間」を十分に取れない環境が広がっていると思います。その理由は、政治犯収容所ではありません。
その理由は何でしょう。
ともかく、現代日本の若者は、恋人の時間を持てていないのです。学業が忙しいのか、仕事が忙しいのか、お金が無いのか、ともかく、日本の若者は恋人と会うこともできず、結婚もできず、子供を授かることもどんどん難しくなっているのです。南米ウルグアイの若い恋人は、どんなに忙しくても原則として毎日会うんだそうです。どうしてそれが日本の若者にできないのか、立ち止まって考える必要があります。
ムヒカさんがこの言葉を何歳の時に話したのか分かりませんが、自分自身の少しの後悔が含まれているようで、少し寂しい印象も持ってしまいます。(私は十分には持てなかったが)「若者は恋をする時間を持ちなさい」と言っているように感じました。後悔先に立たず、という言葉もありますね。ムヒカさんの言葉には、そのニュアンスも少し含まれているのだと感じます。
-
Jose Mujica:In a republic, all are equal and the people decide everything.
https://mempool.space/ja/tx/cd2ccc13523f7afd4efb99c7103f93853e342a2a5d5714cb59e24223f575b7b0
南米ウルグアイの元大統領ホセ・ムヒカさんの金言をOP_RETURNで全世界に発信しました。
「共和国においては、国民は皆平等であり、すべてのことを国民が決めるのだ。」
「republic」という語は、ラテン語の res publica に由来します。これは漢字の部首のようなもので、意味が合算されているわけです。
res は「物事」「事柄」
publica は「公共の」「人々に属する」
したがって republic とは、「人々全体に関わる公共の事柄」を意味します。つまり、特定の王や支配層のものではなく、共同体のすべての構成員が関与すべき事柄だ、という考え方が込められています。
この語源的背景から、共和制は「公共のことを皆で決める仕組み」であり、民主制と重なり合いながらも「公(おおやけ)に属するものを人々が担う」という理念を強調しているのです。ムヒカ氏は、まさにこの原義を踏まえた上で「共和国の実質」を問うたといえます。
ムヒカさんは、「名前だけの民主制共和国」からの脱却を目指して、言ったのです。
全ての国民が平等であり、国民が全ての事を決める、それが共和制だと。
ホセ・ムヒカの「共和制」観の核心
ウルグアイの元大統領ホセ・ムヒカ氏は、独特の言葉と生き方によって世界的に注目された政治家です。彼がしばしば口にしたのは「形式だけの民主制共和国から抜け出さなければならない」という問題提起でした。これは単なるスローガンではなく、彼自身の政治哲学と人生経験に裏付けられた深い思想でした。第二次大戦後に欧州の復興によりウルグアイの貿易が激減し、不景気により軍事政権が樹立され、急激に民主主義が後退してしまったウルグアイの反省から出てきた言葉です。
ここで鍵となるのが「republic(共和国)」という言葉です。ムヒカ氏の理解では、共和国とは「すべての国民が平等であり、国民がすべての事を決める」体制を意味します。しかし現実には、民主主義や共和制を名乗る国々が、実際には経済的・社会的格差によって多くの人々を政治参加から遠ざけ、名ばかりの平等しか実現できていないという矛盾があるのです。ムヒカ氏はその現実を「名前だけの民主制共和国」と呼び、それを乗り越えるべきだと主張しました。真実の民主制、真実の共和制とはどういうものか、全ての国民が学び続けなければなりません。
形式的な民主制への批判
多くの国では憲法や法律で選挙制度が整えられ、国民が投票によって代表を選ぶ仕組みが用意されています。しかしムヒカ氏が危惧したのは、選挙が形式化し、実際には一部の富裕層や企業の影響力が強まり、国民全体の意思が反映されにくくなる現象です。
「名前だけの民主制共和国」という言葉には、次のような含意があります。
制度は存在しても実質的な平等が欠けている
経済格差や教育格差によって、多くの人々が政治に十分関与できない。民意の形骸化
選挙はあっても、実際には既得権益層が政策を左右する。市民の疎外感
政治が遠い存在となり、「自分たちのことを自分たちで決めている」という実感が持てない。こうした状況は、形式的には民主制であり共和国であっても、実際にはその理念を空洞化させている、とムヒカ氏は見抜いたのです。
真の共和国に必要な条件
ムヒカ氏が語った「全ての国民が平等であり、国民が全ての事を決める」という理想は、現代社会では非常に高いハードルを伴います。しかし、彼が目指した方向性は明確でした。
社会的平等の実現
格差を是正し、誰もが教育・医療・生活の基盤にアクセスできるようにする。市民参加の拡大
投票にとどまらず、地域での合意形成や政策議論に国民が直接関わる機会を増やす。公共精神の涵養
個人の利害よりも社会全体の幸福を優先する価値観を育む。質素な政治の実践
政治家自身が特権的生活に溺れず、市民と同じ目線で生きる。ムヒカ氏が大統領在任中に「世界で最も貧しい大統領」と呼ばれたのは、その姿勢の表れでした。ムヒカの人生と思想の結びつき
ムヒカ氏の言葉の重みは、彼の人生経験に支えられています。若い頃、軍政に抵抗するゲリラ組織に加わり、逮捕されて13年間も獄中生活を送りました。その間、過酷な環境に耐えながら「人間の尊厳とは何か」を深く考えざるを得なかったのです。
1985年の釈放直後の演説で彼はこう語りました。
「私は憎しみの道を歩まない。私たちに卑劣を働いた相手に対してであっても。憎しみは何も築かない。」
この姿勢は、政治権力を持った後も変わりませんでした。彼は大統領としても贅沢を拒み、質素な農場暮らしを続け、給与の大部分を寄付しました。その実践こそが、「国民と平等である」という共和制の根本精神を体現していたのです。
現代へのメッセージ
名前だけの共和国、本当の共和国、平等、国民が決める、など、ムヒカさんの言葉には、現代日本の我々もドキリとさせられますね。我々の国は本当に民主政と言えるのか、疑問に感じてしまうこともあります。ムヒカ氏の言葉は、ウルグアイだけでなく、今日の世界に対する警鐘でもあります。多くの国が「民主制」や「共和国」を名乗りながらも、実際には一部の支配層が利益を独占し、国民全体の声が届きにくくなっています。SNSや情報操作によって人々の判断が左右される現象も、名ばかりの民主制を助長しかねません。選挙があっても、戦争が止められない、あるいは助長されてしまう事例をいくつも人類は体験してきました。
ムヒカ氏が目指したのは、そうした形骸化を打破し、本当の意味で「公共のことを人々が決める」体制でした。彼の思想は理想主義的に見えるかもしれませんが、その根底には「制度は人間のためにあり、人間の尊厳を守るためにある」という確固たる信念が存在します。
まとめ
「共和国」とは、単なる国制上の呼称ではなく、国民が平等であり、公共のことを自ら決めるという理念を実現する仕組みを指します。ムヒカ氏は、その理念が形骸化し「名前だけの民主制共和国」となってしまった現状を批判し、より実質的な市民参加と平等を求めました。
さらに、国民に全ての決定権があるとしても、何でも決められるというわけではない、ということもムヒカさんは考えていたでしょう。全国民の福祉のために、正しいことを決定すべきという価値基準があるはずです。貧困を無くし、犯罪や戦争を無くす、とてもシンプルなことです。
彼の言葉は、私たち一人ひとりに「民主主義や共和国という言葉に安住せず、その実質を問い続けよ」と訴えています。それは、現代社会においても普遍的な問いであり、共和制の原義を思い出させる力強いメッセージなのです。
-
Jose Mujica:Forgive,let go of the past,and stay open to different opinions.
https://mempool.space/ja/tx/bee7326871ac3027e6fbeb5be58f19228a85e7caab5a0cd04019f48b58a2ac09
南米ウルグアイの元大統領ホセ・ムヒカさんの金言をOP_RETURNで全世界に発信しました。
赦しなさい、過去に捕われず、未来のことを考えなさい。そして、異なる意見に常に心を開きなさい。
このメッセージは、赦しを単なる忘却という意味ではなく、過去の出来事から教訓を汲み取りつつも怨恨に足を絡め取られないという積極的な〈態度〉を勧めています。赦しは、加害や過ちを免罪することではなく、事実と責任を直視したうえで、憎悪の連鎖を断ち切る実践です。過去に囚われ続けると、視野は狭まり、可能性は枯渇します。反対に、未来に視線を上げることは、痛みを否認せず、なお明日をつくる主体として生き直す決意にほかなりません。そして、異なる意見に心を開くことは、自己の確信を相対化し、学びを深め、社会の多様性がもたらす創造力を引き出すための前提条件なのです。
軍政に対するレジスタンス活動をしていたホセ・ムヒカさんは、政治犯として36歳から49歳までの13年間、過酷な条件下で収容されていました。長期の拘禁は、身体と精神の双方に計り知れない影響を与えます。けれども彼は、屈辱や痛苦の記憶を、そのまま憎悪の燃料にはしませんでした。むしろ、その時間を通じて「人間は何をよりどころに生きるのか」「社会はいかにして憎しみの増殖を止められるのか」という根源的な問いを深めたのだと考えられます。自由を奪われた歳月が、のちの彼の言葉と政治姿勢に重みを与え、単なる美辞麗句ではない実践的な説得力を宿らせました。
1985年、ようやくウルグアイに民主主義が戻り、彼は釈放されます。釈放直後の最初の演説でムヒカは、次のように語りました。
“No acompaño el camino del odio, ni aun hacia aquellos que tuvieron bajezas sobre nosotros. El odio no construye.”
(「私は憎しみの道を歩まない。私たちに卑劣を働いた相手に対してであっても。憎しみは何も築かない。」)
権力の暴虐にさらされた当事者でありながら、彼は報復の言葉ではなく、建設の言葉を選んだのです。ここで言う「憎しみは何も築かない」は、単なる道徳的理想ではありません。憎悪は判断を曇らせ、反射的な対立を生み、結果として社会の再統合と制度の再建を遅らせます。だからこそ、真実を明らかにし責任を問うプロセスと、長期的な社会の修復を両立させるために、彼は意識して「憎しみの道」を退けたのでしょう。赦しとは、記録と記憶を曖昧にすることではなく、記録と記憶を土台にして未来をつくるために、内なる怨恨の支配から自分を解放する意思なのだ、と。また、ムヒカは繰り返し「異なる意見に耳を傾ける」ことの大切さを語ってきました。
「El diálogo es la más hermosa de las formas que existen para aprender… / Es importante hablar con los que piensan distinto: te ayudan a pensar.」
(学ぶ最も美しい方法は対話だ/異なる考えの人と話すことは大切だ。彼らはあなたの思考を助けてくれる。)
この言葉は、対話を単なる意見交換ではなく〈学びの方法〉だと位置づけます。相手の前提や体験に触れることで、自分の思考の盲点があぶり出され、理解の地平が広がるからです。彼はさらに、「Donde no hay cultivo de la discrepancia no existe libertad.」(異論を育む場がなければ自由は存在しない)と断言しました。「異論を育む」とは、ただ異論が“ある”ことを黙認するのではなく、異なる見解が安心して提示され、検討され、修正されうる空間を社会が意識的につくることを意味します。寛容は、対立の不在ではなく、対立を創造的に扱う技法なのです。「Hay que pelear por la tolerancia… para poder pensar distinto(異なる考えのために寛容を闘い取るべきだ)」という表現には、寛容を生ぬるい黙認ではなく、民主主義を成立させるために獲得・維持すべき〈公共の筋力〉とみなす視点がにじみます。
また、彼は「Hay que aprender a convivir con lo que es diferente… El arte de convivir es respetar con lo que uno tiene discrepancia.」
(異なるものと共に生きることを学ばねばならない/共生の核心は、意見が違う相手を尊重することだ。)と述べました。ここで提示されるのは、単なる我慢の共存ではなく、尊重にもとづく共生です。尊重は、相手の主張に必ず同意することではありません。相手の人間としての尊厳と、議論に参加する権利を認め、そのうえで根拠と理由を持って異議を唱えることです。彼のモットー「nadie es más que nadie(誰も誰より上ではない)」は、この姿勢を簡潔に言い表しています。――
怒りの感情、憎しみの感情に捕われてしまうと、異なる意見に耳を傾けることが出来なくなってしまう。これは、個人の生活でも、政治や職場、オンライン空間でも同じです。怒りは瞬発力を与えますが、持続可能な解決策を生む思考の余白を奪います。異なる意見は、時に不快で、自己像を揺さぶります。しかし、その不快の中にこそ、思考を助け、自分を成長させる鍵があります。対話を通じて学び続けるとは、相手の論拠を聴き、自分の前提を点検し、合意できる点と留保すべき点を見極め、必要に応じて立場を更新することです。そうして初めて、対立は破壊ではなく熟議へと変わります。ムヒカの言葉が教えてくれるのは、世界を良くし、自分を幸福に導く道は、強さの別名としての〈赦し〉、記録と責任に裏打ちされた〈未来志向〉、そして人間の尊厳を基盤とする〈開かれた対話〉の三位一体だということです。赦しは弱さではありません。怒りのエネルギーを未来に投資し直す、勇気の行為です。過去を消すのではなく、過去から学び、記憶を正しく保存し、同じ過ちを繰り返さない制度と文化を育てる。その過程で、異なる意見を歓迎し、論争を恐れず、相互の尊重を手放さない。こうした日々の小さな選択の積み重ねが、個人の幸福を支え、共同体の民主主義を強くします。
私たちは、いま目の前の議論であれ、社会の大きな課題であれ、次の三つの実践に戻ることができます。第一に、事実と責任を直視しつつ、憎しみの支配を拒む。第二に、過去の傷から学び、制度と信頼を更新する方向にエネルギーを注ぐ。第三に、異なる意見に心を開き、対話を学びの機会として設計する。――それが、ムヒカの生と語りから受け取れる、人類に向けられた確かな羅針盤、そして偉大な遺産なのです。
admin へ返信する コメントをキャンセル