自薦他薦を問わず OP_RETURN記録の報告をして相互に鑑賞致しましょう。手動承認により掲載されないことがありますので御了承下さい。
OP_RETURN報告
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Ogiwara Seisensui:The moon roams alone in the sky
https://mempool.space/ja/tx/b82cfa0493e60e64d04f7ddbffd04afa5575123b88b456da8d18b01607d9f2a7
荻原井泉水の俳句をopreturn で送信してみました。管理人は種田山頭火の俳句が好きなのですが、自由律俳句の繋がりで荻原井泉水も知ったのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E5%8E%9F%E4%BA%95%E6%B3%89%E6%B0%B4
『空を歩む朗々と月ひとり』
これの英訳バージョンですね。管理人の読解を提示します。
『ひとり静かに空を見上げていると、雲一つない漆黒の夜空に綺麗な満月が浮かんでいる。満月が見事すぎて他の星が良く見えない。どれくらい見ていたのだろう、満月は少しずつ移動している。ゆったりと歩んでいるようだ。私は悩み事があるが、満月にはまるで何も悩みがないかのように見える。私も満月のように自然体で歩んでいきたいものだ。』
荻原井泉水の詳細な生涯と思想
1. 生い立ちと幼少期の感性
出生と家庭環境
荻原井泉水は、1884年に東京市芝区神明町(現:東京都港区浜松町)で雑貨商・「新田屋」の次男として生まれる。荻原家は越後国高田(現:新潟県上越市)出身で祖父・藤吉が家庭の事情で若いとき家を出奔して江戸に出てきたといいます。幼少期から彼は、身近な自然や日常の一瞬の輝きに鋭敏な感受性を示し、独自の世界観を育んでいきました。家庭環境や周囲の風景は、のちの俳句作りにおいて、自然現象や季節の微妙な変化、そして人々の営みを丹念に描写する原点となりました。幼い頃から詩的な表現に対する興味は旺盛で、日常の小さな出来事すらも、言葉のリズムや音の調和として捉える才能を発揮していたと伝えられます。
初期の俳句制作の影響
中学時代に俳句に触れた井泉水は、先人たちの句を模倣するだけでなく、自らの感情や印象を率直に表現する試みを始めました。定型に縛られない自由な発想は、後の自由律俳句の礎となり、彼自身の独創性と感性が徐々に磨かれていったのです。幼少期の体験や、日々の風景の中で感じた「今この瞬間」の美しさが、彼の句作りにおける原動力となりました。2. 学歴と詩的な成長
学校生活と俳句サークルの形成
井泉水は、第一高等学校(旧制一高いわゆる東大駒場キャンパス)および東京帝国大学(東大本郷キャンパス)で学びながら、俳句サークルで活発に活動しました。学校という知的環境は、古典文学や和歌・俳句の伝統を学ぶとともに、西洋詩や現代思想といった新たな知見を吸収する場となり、彼の創作活動に大きな影響を与えました。大学時代の交流や議論を通じて、伝統的な定型俳句の美学は認識しつつも、その枠組みがもたらす制約に対して疑問を抱くようになりました。高浜虚子との出会いと師弟関係
在学中、井泉水は高浜虚子という当時の名高い俳人の下で学ぶ機会に恵まれました。虚子の厳格な伝統美とともに、その中で新しい表現を追求する姿勢は、井泉水にとって大きな刺激となり、後に「俳句は印象の詩である」という彼独自の理念の形成に寄与しました。虚子との交流は、単に技法を学ぶだけではなく、俳句を通じた人間性の深さや、自然との対話の重要性をも教え、井泉水の詩作における思想的な土台を築いたのです。知識と感性の融合
また、彼は学校教育を通じて、古典や現代文学、さらには西洋の詩学にも触れました。これにより、伝統的な枠組みの中にとどまらず、新たな詩的な表現手法や自由な言葉の使い方を模索するようになりました。古典的な美意識と革新的な思想の融合は、井泉水の句作りにおいて、単なる技法の模倣に留まらない独自のスタイルを確立する鍵となりました。3. 自由律俳句への挑戦と『層雲』創刊
伝統的定型への批判と新たな可能性
井泉水は、従来の五・七・五という定型俳句の形式や季語の使用に対して、常に疑問の目を向けていました。彼は、形式に縛られることで本来の「今感じた感動」や「内面の情感」が十分に表現できないと考え、詩情や印象をより直接的かつ自由に伝えるための方法を模索しました。彼の考えでは、俳句とはあくまで感情の断片を切り取るものであり、その瞬間の空気感や情緒こそが、最も重要な要素であるとされました。『層雲』の創刊とその意義
1911年(明治44年)、井泉水は自らの理念を具現化するため、新傾向俳句を基盤とした雑誌『層雲』を創刊しました。『層雲』は、従来の厳格なルールに捕らわれず、詩的な感動や印象をそのまま表現できる自由律俳句の場として設立されました。
形式への解放
『層雲』は、形式的な制約を取り払い、感情や風景の断片をそのまま詠むことを可能にしました。これにより、井泉水自身が試みた「即興的な詩作」の理念が広がり、同じ志を持つ多くの俳人たちに新たな創作の道を示すこととなりました。後進育成の場としての役割
また、『層雲』は、井泉水が後進の俳人たちに対して、自由な発想と自己表現の大切さを説くための発表の場ともなりました。雑誌を通じて交わされる句や論評は、若手俳人たちにとって大きな刺激となり、伝統と革新を両立させた新たな俳句作りのモデルケースとして評価されるようになりました。
形式に囚われない詩作の追求
井泉水は、自由律俳句の普及により、俳句を「固定された形式」ではなく、「瞬間の感動を捉えるための道具」として再定義しました。彼のアプローチは、単に形式を破壊することに留まらず、言葉の響きやリズム、そして余韻の持つ多義性を最大限に引き出すものであり、これにより俳句の表現力が飛躍的に向上したといえるでしょう。4. 俳句界への影響と伝承の歩み
後進への多大な影響
荻原井泉水の革新的な俳句観は、尾崎放哉、種田山頭火、中塚一碧楼など、自由律俳句の代表的な俳人たちに強い影響を与えました。
尾崎放哉との共鳴
尾崎放哉は、井泉水の提唱する「俳句は印象の詩である」という理念を深く受け止め、自身の句作においても、瞬間の情感や内面の葛藤を独自の言葉で表現しました。彼の作品に見られる独自のリズム感や言葉遊びは、井泉水の影響が色濃く反映されています。種田山頭火の革新精神
また、種田山頭火は、井泉水の自由律俳句の精神をさらに発展させ、厳しい自然環境や孤独感、そして人生の苦悩を率直に詠むことで知られるようになりました。彼の句は、井泉水の革新が後進に与えた具体的な成果のひとつと言えるでしょう。山頭火は井泉水の2才年上ですが、創刊した句誌「層雲」で山頭火を取り上げるなど井泉水が山頭火を育てたと見ることもできる関係でした。伝統との対話と新旧融合
井泉水は、単に新しい表現方法を提唱するだけでなく、伝統的な俳句の美意識とも対話を続けました。京都の落柿舎など、歴史的な場所を訪れながら、古典の美や格式を尊重しつつも、それを現代の感性と融合させる姿勢は、彼の多面的な俳句観を象徴しています。
伝統的要素の再評価
古典的な技法や季語の美しさを否定するのではなく、それらを新たな文脈で再解釈し、自由律俳句として再構築する試みは、井泉水が持つ伝統への敬意と革新への情熱の両立を示しています。
後進への指導とコミュニティ形成
『層雲』を通じた句作りの交流は、若手俳人たちにとって、既存の枠組みを超えた創作の自由を享受するための大きな原動力となりました。井泉水自身が後進に対して惜しみない助言を与え、同時に多くの若手が彼の教えを受け継ぐことで、自由律俳句は一つの大きな潮流として確立されていったのです。
山頭火との違いと独自性
井泉水の活動は、同時代の俳人である山頭火とも比較されることが多いですが、両者には明確な違いが見られます。山頭火はより情熱的で感情の奔放さを表現する一方、井泉水は冷静な観察と内面的な感情の精緻な表現に重きを置き、形式の解放と同時に、言葉の深淵を探求する姿勢が際立っていました。5. 作品と詩風の詳細な分析
具体的な情景描写と内面的感情の融合
井泉水の句作は、具体的な自然の風景や季節の変化を、鮮やかな言葉で捉えると同時に、その背後にある人間の内面世界をも鋭く映し出しています。代表的な句「たんぽぽたんぽぽ砂浜に春が目を開く」は、単なる自然描写に留まらず、春の訪れとともに内面に芽生える希望や新たな感情を象徴するものとして評価されています。
視覚的な描写
井泉水は、細部にわたる視覚的描写に優れ、砂浜の一粒一粒や、たんぽぽの花びらの儚さを、まるで絵画のように言葉に乗せる手腕を持っています。その描写は、読む者に強烈な印象を与え、自然の美しさだけでなく、その背後に潜む季節の移ろいをも感じさせます。内面的な情感の表現
一方で、彼の句には、感情の機微や心の奥底にある孤独、あるいは静かな安らぎといった、内面的な情感が巧みに表現されています。形式に縛られない自由律俳句として、瞬間の感動をそのまま詠む手法は、感情の真実性や生々しさを伝え、読者に深い共感を呼び起こすのです。革新的な表現技法とリズム感
井泉水は、従来の五・七・五という形式の枠を超えて、言葉の響きやリズム、そして語感の美しさを重視した表現技法を追求しました。
自由なリズムの創出
定型に縛られない自由律俳句は、まるで即興の詩作のような感覚を与えます。井泉水は、瞬間の衝動や印象をそのまま表現するため、言葉のリズムや音の調和に徹底的にこだわりました。これにより、句全体に生き生きとした流れが生まれ、読者はその音の美しさに自然と心を奪われるのです。多義性と解釈の余地
彼の句は、言葉の多義性を巧みに利用することで、さまざまな解釈を許す余地を残しています。これは、単に一つの正解を求めるのではなく、読む者自身が自分なりの感情や思いを重ね合わせることができるような、詩的な自由を提供するものです。こうした点は、現代俳句における重要な要素となり、井泉水の革新的な精神が後世に受け継がれている理由の一つと言えるでしょう。文体と哲学的背景
井泉水は、単に新しい技法を模索するだけでなく、俳句という短詩の根源的な役割についても深く考察しました。
詩的哲学と表現の自由
彼は、「俳句とは、固定された形式に縛られるものではなく、瞬間の感動や詩情を自由に表現するための道具である」という理念を掲げ、詩そのものが持つ内在的な美や力を最大限に引き出すことを目指しました。この考え方は、井泉水が従来の形式美に疑問を呈し、自由律俳句へと舵を切った背景にある哲学的な根拠でもあります。伝統との対話と現代性
同時に、彼は古典的な和歌・俳句の伝統にも深い敬意を払いながら、その伝統を土台に新しい表現を生み出すという、両極のバランスを追求しました。たとえば、伝統的な季語や定型の美しさを一部取り入れながらも、それに固執することなく、自由な発想で詩情を表現する――この両立が、井泉水の句作りの大きな特徴となっています。6. 荻原井泉水の文化的・歴史的意義
時代背景と俳句界の革新運動
井泉水が活躍した明治・大正・昭和初期は、日本が急速に近代化する中で、伝統と革新が激しく交錯する時代でした。
近代化と伝統文化の再考
この時代、多くの文人が古典に対する新たな解釈を模索し、伝統的な表現形式を再評価するとともに、それに挑戦する動きが活発化していました。井泉水は、俳句という短い詩の中に、近代的な思想や個々の感性を反映させることにより、伝統文化と新たな時代の価値観との融合を実現しようとしました。自由律俳句の普及と文化交流
『層雲』の創刊は、ただ一つの雑誌発行に留まらず、同時代の多くの俳人たちとの交流の場を提供しました。これにより、井泉水の自由律俳句は国内のみならず、国際的な文芸交流の中でも一つの光となり、日本独自の新しい詩の可能性を示す一例となりました。国際社会との接点として、彼の句が海外の文芸愛好家にも注目されることとなり、後の日本俳句界における国際的な評価の高まりに寄与しています。後世への影響と遺産
井泉水の革新は、単なる一時の流行に留まらず、現代に至るまで多くの俳人や詩人たちにインスピレーションを与え続けています。
後進への伝承
彼の理念や表現方法は、尾崎放哉、種田山頭火、中塚一碧楼といった後進たちによって引き継がれ、発展していきました。彼らは井泉水が掲げた「形式に囚われない自由な表現」の精神を受け継ぎ、各自の感性に基づいた独自の句作りを展開。これにより、自由律俳句という新たなジャンルは、日本の文芸界における重要な一派として確立されました。文化的・学術的評価
井泉水の活動は、単に詩作として評価されるだけでなく、近代日本の文化的再生や、伝統と革新の相克の中で生まれた思想の一端として、学術的な研究対象ともなっています。彼の句集や『層雲』は、現代においても研究者や文芸評論家によって精査され、その革新的な試みが高く評価されています。さらに、彼の生涯や句作は、多くの文学賞や記念展、講演会などで取り上げられ、後世に向けた貴重な文化遺産として位置づけられています。7. 井泉水の俳句の持つ現代的意義
固定概念への挑戦と自由な発想
井泉水が提唱した自由律俳句は、単に定型を壊すという行為に留まらず、現代社会における固定概念や形式主義への挑戦そのものとして、今なお多くのクリエイターにインスピレーションを与えています。
表現の自由と個人の感性
彼の句作は、「今ここにある感動」をそのまま詩に落とし込むことの大切さを説いており、形式に縛られず個人の感性を最大限に発揮することの意義を示しました。これは、現代における自己表現の多様性や、固定された価値観への挑戦と通じるものがあり、芸術全般における革新的な精神の源泉ともなっています。
自然との共生と人間性の探求
井泉水の句は、単に美しい風景を描くだけでなく、その背後にある自然の営みや人間の心情を鋭く捉えています。
環境意識と感受性の高揚
現代社会では、環境問題や自然との共生が重要なテーマとなっていますが、井泉水の句作は、自然そのものの美しさや儚さ、そしてそれに対する人間の感情を深く掘り下げています。こうした視点は、自然環境の保護や、日々の生活の中で感じる小さな感動を大切にする現代人にとって、再評価される価値があります。人間性の深淵と孤独の美
また、井泉水は、孤独や静寂といった人間の内面的な側面も巧みに表現しました。彼の句には、時に哀愁や孤独、そしてその中に見出される美しさが漂い、読む者に深い共感を呼び起こします。これは、急速に変化する現代社会の中で、個々の内面に向き合う重要性を再認識させるものでもあり、彼の詩的なアプローチは今も多くの人々に影響を与え続けています。8. 井泉水の遺産と現代俳句界の未来
文化遺産としての井泉水
井泉水の生涯とその句作は、現代日本の文芸史において極めて重要な位置を占めています。彼が自由律俳句の可能性を切り拓いたことは、俳句という短い詩の枠を超え、表現の幅を広げる大きな転換点となりました。彼の活動は、伝統を尊重しながらも未来へ向けた革新の道を示すものであり、現在もなお多くの文芸研究者や俳句愛好家によって研究・議論されています。現代俳句界への影響と今後の展望
井泉水が残した自由律俳句の理念は、現代の俳句界においても引き継がれ、多くの若手俳人がその精神を継承しつつ、新たな表現を模索しています。
新たな表現の模索
テクノロジーの発展やグローバル化の進展に伴い、現代の詩作環境は大きく変化していますが、井泉水が追求した「固定概念に囚われない自由な表現」という精神は、今なお普遍的な価値を持ちます。デジタル時代においても、短い言葉で深い感情や思想を伝えるという彼のアプローチは、新たな媒体や手法と融合しながら、次世代の創作活動に新たな息吹を与えているのです。国際交流と多様な詩作の広がり
井泉水の自由律俳句は、国内に留まらず国際的な文芸交流の中でも評価されるようになりました。外国の詩人や文芸評論家が彼の作品に触発され、日本独自の感性と表現方法に対する関心を高めることで、今後ますます多様な解釈と発展が期待されています。伝統と革新の未来的融合
井泉水の試みは、単なる過去の遺産に留まらず、伝統的な俳句の技法と現代の自由な表現の両立という、新たな芸術の可能性を示唆しています。
教育と普及活動
彼の生涯と句作は、俳句教育の現場においても重要な教材となっており、自由律俳句の理念やその実践方法が若手俳人に伝えられています。学校や文芸講座、各種ワークショップを通じて、井泉水の精神は次世代に受け継がれ、より多くの人々に俳句の魅力が伝えられているのです。研究と文芸批評への影響
井泉水の革新は、俳句に関する学術的な研究の対象としても多く取り上げられ、論文や書籍、シンポジウムで議論されています。彼の作品や『層雲』に収められた句は、現代の文学研究においても重要な資料となり、自由律俳句の成立過程やその後の展開について、今なお新たな視点から再評価されています。9. 荻原井泉水の哲学と美意識
「印象の詩」としての俳句
井泉水は、俳句とは単なる季節や風景を描写するためのものではなく、個々の瞬間に生じる感動や印象を詩的に捉えるための手段であると説きました。
感性と即興性
彼の句作には、常にその瞬間に感じた感情や風景の一瞬の輝きを、そのまま詩に昇華させる即興性が感じられます。これは、形式に縛られない自由律俳句の特徴であり、読む者に対して、心の中でさまざまなイメージや感情を呼び起こす力となっています。美意識の再構築
井泉水は、古典的な美意識を否定するのではなく、それを新たな形で再構築することを目指しました。伝統的な美の価値と、現代的な自由な感性が融合することで、彼の句は単なる風景描写を超え、深い人間性や哲学的な問いを内包するものとなりました。言葉の力と詩的表現の限界への挑戦
彼はまた、言葉そのものの持つ力、つまりその音の響きやリズム、さらには言葉が内包する多義性に注目し、それらを最大限に活かす試みを行いました。
音律とリズムの探求
定型にとらわれない自由律俳句は、まるで音楽のように、言葉が奏でるリズムやハーモニーを重視します。井泉水は、句の各音節が持つ響きや流れを丹念に観察し、その結果、読む者が心地よいリズムを感じる句作りを実現しました。
多義性と解釈の自由
また、彼の句は一つの固定された意味に収まることなく、さまざまな解釈を許す余白が常に存在します。これは、自由律俳句としての大きな魅力であり、読者自身が自らの経験や感情を重ね合わせながら、独自の物語を見出すことを可能にしています。
10. 荻原井泉水の遺産と現代文芸への影響
文化的な評価とその後世への受容
井泉水の活動は、その生前から多くの俳句愛好家や文芸評論家に支持され、後に文化遺産としての価値が再評価されるようになりました。
記念展と文芸イベント
彼の功績を讃える記念展や講演会、さらには文芸イベントは、国内各地で開催され、井泉水の生涯や句作が広く紹介されています。これにより、彼の革新的な精神は、一般の人々にも広く知られるようになり、現代の俳句文化における一大潮流として受け継がれています。学術研究と文芸評論
近年、井泉水の句作や『層雲』に関する学術研究が活発化しており、彼の革新がいかにして日本の俳句界に新たな風を吹き込んだのか、その影響力が詳細に論じられています。研究論文や書籍、シンポジウムなどを通じて、井泉水の思想と美学は次世代の文芸論に大きな影響を与え続けています。現代俳句とその可能性
井泉水が切り拓いた自由律俳句の道は、現代の詩作においてもなお生き続けています。
多様な表現の発展
インターネットやデジタルメディアの普及に伴い、俳句は従来の紙媒体にとどまらず、ブログやSNS、電子書籍など、さまざまな形で発表されるようになりました。井泉水の提唱した「形式にとらわれない表現」は、このような多様な媒体との相性が良く、現代の若い世代にも強い影響を与えています。国際的な文芸交流
さらに、井泉水の自由律俳句は、国際的な文芸交流の中でも評価され、日本独自の感性や表現技法として海外の詩人たちにも影響を及ぼしています。日本の伝統と革新が融合した彼の句作は、世界各国の詩や短詩に新たな視点を提供し、グローバルな文化交流の架け橋としての役割を果たしています。まとめ
荻原井泉水は、1884年の東京生まれから、第一高等学校や東京帝国大学での学びを経て、伝統的な定型俳句に代わる新たな表現の可能性を模索し、1911年に『層雲』を創刊することで自由律俳句の普及と革新に大きく寄与しました。
彼の句作は、具体的な自然描写とともに、内面の感情や詩情を深く掘り下げ、形式にとらわれない自由な発想を追求しています。尾崎放哉や種田山頭火など、彼の影響を受けた多くの俳人がその理念を受け継ぎ、さらなる革新の道を切り拓いていきました。
井泉水はまた、伝統的な美意識と現代的な自由表現との対話を通じて、古典と革新の融合を実現。その試みは、現代の俳句界においても普遍的な価値を持ち、若手からベテランに至るまで幅広い支持を集めています。彼が遺した豊かな句作と革新的な理念は、今日においても日本の文芸史の重要な一ページとして読み継がれ、未来の俳句文化における指針となるでしょう。
自由律俳句の可能性を示した井泉水の活動は、形式に囚われず個々の感性を最大限に表現するという、詩作の根本的なあり方を問い直すものであり、現代においてもその精神はなお生き続けています。彼の詩的探求は、単なる伝統破壊にとどまらず、新たな美意識と感情表現を生み出すための普遍的な挑戦であったといえるでしょう。
このように、荻原井泉水は、古典と近代、伝統と革新、そして内面の感動と形式の自由との対話を通じ、日本の俳句に新たな地平を切り拓いた巨匠です。彼の生涯、作品、そしてその影響は、今後も多くの俳人、文芸研究者、そして広く文化を愛する人々によって受け継がれ、さらに発展していくことでしょう。以上、荻原井泉水の生涯とその革新的な俳句観、そして現代における意義を余すところなく紹介しました。彼の情熱と探究心は、伝統を尊重しつつも常に新しい表現への挑戦を続ける現代の俳句文化にとって、かけがえのない光となっています。
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Saijo Yaso:The canary that forgot his song
https://mempool.space/ja/tx/0f54a33035834215b7f1bc7b6e05da4e2a3a1d02ba44ff89fa0c6ff90b2b4f9f
日本では有名な西條八十さんの「かなりや」を、全世界に向けて、opreturnで送信致しました。この名曲は英語をはじめ世界各国の言語に翻訳されて広まっています。西條八十のやさしいまなざしが世界に癒しを与えているのです。
かなりや 西條八十(一)
唄(うた)を忘れた金絲雀(かなりや)は
後(うしろ)の山に棄(す)てましょか。
いえいえそれはなりませぬ。
唄を忘れた金絲雀(かなりや)は
背戸(せと)の小藪(こやぶ)に埋(う)めましょか。
いえいえそれはなりませぬ。
唄を忘れた金絲雀は
柳(やなぎ)の鞭(むち)でぶちましょか。
いえいえそれは
かわいそう。
唄を忘れた金絲雀は
象牙(ざうげ)の船に銀の櫂(かい)
月夜(つきよ)の海に浮(うか)べれば
忘れた唄をおもひだす。
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子供の時から聴いたり歌ったりしている「かなりや」に、どんな思いが込められているのか、成田為三さんの解説と西條八十さんのエッセーで知ることができます。これは、当然に、カナリアの事じゃあないのです。それは元気をなくして人間についての歌だったのです。八十は明治大正昭和を生き抜いた詩人でしたから、戦乱で傷ついた人々も多かったのでしょう。それは、もしかすると、自分自身のことかもしれません。それか愛する家族が意気消沈しているのかもしれません。その元気をなくした人に対して、あれやこれやと働きかけてもうまく行かないよ、それは静かな心休まる環境に置いて、ゆっくり待ちましょうね、ということなんですね。それは、身近に抑うつ状態を体験した詩人自身による癒しの歌だったのです。
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西條八十(さいじょう やそ)の紹介
生年月日:1892年(明治25年)1月15日
没年月日:1970年(昭和45年)8月12日
出身地:東京府東京市(現在の東京都)
職業:詩人、作詞家、童謡作家、翻訳家、大学教授生涯と経歴
西條八十は、明治時代の東京に生まれ、早稲田大学仏文科を卒業しました。フランス象徴派詩人の影響を受け、抒情的で美しい詩を多く残しました。大正から昭和初期にかけて、詩人としてだけでなく、歌謡曲や童謡の作詞家としても名を馳せ、日本の大衆文化に大きな影響を与えました。また、戦後は早稲田大学の教授として後進の指導にもあたり、日本の文学・音楽文化の発展に尽力しました。
詩人としての活動
西條は、象徴主義やロマン主義の影響を受けつつ、日本の抒情詩に独自の世界観を確立しました。特に詩集『砂金』(1922年)や『母の歌』(1923年)は、その繊細で美しい表現が評価され、多くの読者に愛されました。また、彼の詩には、母や故郷を思う情感豊かな作品が多く見られます。また、フランス詩の翻訳にも力を入れ、ジャン・コクトーやポール・ヴェルレーヌなどの作品を日本に紹介しました。
童謡・歌謡曲の作詞家としての活躍
西條八十は、詩人としての活動と並行して、童謡や歌謡曲の作詞も多く手がけ、日本の音楽文化に多大な貢献をしました。彼の作品は、世代を超えて親しまれる名曲が多く存在します。代表的な童謡
「かなりや」(作曲:成田為三)
「肩たたき」
「証城寺の狸囃子」(作曲:中山晋平)
特に「かなりや」は、大正時代を代表する童謡として有名であり、現在でも多くの人々に親しまれています。代表的な歌謡曲
「東京行進曲」(1929年、作曲:中山晋平)
「青い山脈」(1949年、作曲:服部良一)
「蘇州夜曲」(1940年、作曲:服部良一)
「誰か故郷を想わざる」(1940年、作曲:古賀政男)
「青い山脈」は、戦後日本を象徴する明るい青春歌として非常に人気を博しました。一方で「蘇州夜曲」や「誰か故郷を想わざる」は、美しく哀愁を帯びた歌詞が印象的で、今もなお歌い継がれています。戦争と戦後の活動
戦時中は、戦意高揚のための国策歌も手がけ、「愛国行進曲」などの作詞を行いました。しかし、戦後は平和への願いを込めた詩作や歌詞に重点を置き、「青い山脈」などの作品で新たな時代の希望を歌いました。また、早稲田大学の教授として、文学・詩作の教育にも携わり、詩人・作詞家としての後進を育てることに尽力しました。
晩年と死去
晩年は、引き続き詩作や作詞活動を続けながら、文化勲章の候補にも挙げられるなど、日本文学・音楽界での功績が広く認められていました。1970年8月12日、78歳で死去。彼の作品は今なお多くの人々に愛され、日本の文化に深く根付いています。西條八十の功績と影響
西條八十は、日本の詩・音楽文化において多大な影響を与えた人物です。彼の詩や歌詞は、単なる娯楽を超え、人生や情感を豊かに表現するものとして、多くの人々の心に刻まれています。また、彼の翻訳詩は、日本の文学界にフランス詩の美学を紹介する重要な役割を果たしました。詩、童謡、歌謡曲と多方面で活躍した彼の功績は、今なお日本文化の中に生き続けています。
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Zeami Motokiyo:Fushikaden,Kadensho,Flowering Spirit
https://mempool.space/ja/tx/42ba9826bc0392637b7f606f079d215203761d517b953d1bdb007416f10c4b65
世阿弥の風姿花伝をopreturnで送信してみました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%A7%BF%E8%8A%B1%E4%BC%9D
有名な言葉をここに記したいと思います。
「是非の初心忘るべからず、時々の初心忘るべからず、老後の初心忘るべからず。」
初心者の時の気持ちをいつでも思い返して芸を磨きなさい。
「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、となり。この分け目を知ること、肝要の花なり。」
芸の神髄はあからさまにしてはならない。こうだよああだよと出してしまったら魅力が無くなってしまう。
出さないけれど一生懸命に芸の神髄を表現する、そのギリギリのところが大事である。
「立合ひの席、己が気勢充満せりときは、いと勇猛なり。されば、斯く称へ、此れを「男時」と謂ふ。
また、相手の勢いの盛るるに従ひ、己が力散漫せる様は、かくして「女時」と謂ふべし。
男時にあらば、迷ひなくして、全身全霊を以て攻勢に転ずること、即ち猛然たる行動を貫かん。
然るに、女時においては、むやみに先手を打たず、冷静なる心を保ち、時機を伺ひ、待つべし。
斯くして、男時と女時とは、勝負の際における己が内面の状態を示す指標なり。
常に己の勢いとその消長を知り、適切なる行動を選ぶこと、これこそ芸を究める道と説かる。」芸を極めるには、動きのタイミングを考えることが大切である。
舞台で相手と立ち合いをしている時は、お互いの気勢を感じて瞬時に全身全霊で表現しなさい。「芸の道を究めんと欲する者、己が内に溺りて己を誤ることなかれ。
常に外の客の如く、遠くより自己を眺み、己の真価を省みるべし。
離見の見にて、己が舞台上の所作・身振りを客観に観察し、微妙なる美意を知ること、
これを以て芸の真髄と成さん。眼前の姿に囚われず、心は常に後ろに置き、
全体の流れを俯瞰すること、斯くして真の風流を得んとす。
かくして、離見の見を実践することにより、芸人は己の欠陥を認め、不断の修練に励み、
より一層の高みを目指すべし。常に客の目を借り、謙虚なる心を保ちつつ、
芸の道を邁進すること、これ芸道の不可欠なる心得なり。」芸の道を究めるには自分を客観的に見ることが大切である。
客が自分をどう見ているか、遠くから見ている客の立場で自分を見なさい。
この「離見の見」を体得することにより、一層の高みを目指すことができる。「古より能の道は、血筋のみを以て継がるるにあらず。
師弟の相伝にてその精髄を受け継ぎ、日々研鑽を重ねんこと、こそ真に家と謂はるべし。
初志の心を堅く持ち、先人の教えを胸に刻むる者、斯くして其の芸は永く輝くものなり。
家、家にあらず。継ぐをもて家とす。
斯くの如く、後に来る者は、先代の心得を承り、己が道を磨き、絶えず新たなる試みに臨むべし。
師の伝統をただ受け継ぐにあらず、己の創意をも加へ、真の家族の如く一族の絆を固く結び、芸の花を後世に伝へんとす。」能の芸道は血筋で継ぐものではない。師弟で受け継がれた精神が最も大切である。
芸道を継ぐものは先代の精神を学び、これに自分の創意を加えて芸の花を後世に伝えなければならない。—
いつも思うのですが、風姿花伝は「能の心得書」の範疇を超えて誰にも参考になる人生訓になっていると思います。
しかも、それは時代を超えています。21世紀の現代の我々にも参考になる考え方になっているわけです。
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How can we make everyone smile?
https://mempool.space/ja/tx/7d7db8ea3a29932733d63c1870568f752a4be266994806dd3e741ef086757909
OP_RETURNの書き込みは、ビットコインのブロックチェーンに刻まれ消すことのできない強固な記録です。そこに何を記録したいかといえば、やはり世界平和の願いです。少し調べてみたら、次の紛争が継続中でした。
・ウクライナ紛争
2014年以降、ロシアの介入や2022年2月以降の全面侵攻により激化。多くの民間人犠牲者と難民が出ています。・シリア内戦
2011年のアラブの春から始まり、政府軍・反政府勢力・テロ組織など複数の勢力が衝突。多数の死傷者と難民問題を引き起こしています。・イエメン内戦
2015年から続く内戦。フーシ派と国際的に認められた政権、さらにはサウジ主導の連合軍が関与し、深刻な人道危機を招いています。・イスラエル・パレスチナ紛争
長期にわたる対立に加え、近年はガザ地区などで激しい戦闘が発生。双方に深い歴史的・政治的背景があります。・ミャンマー内戦
2021年のクーデター以降、軍事政権と反政府運動(市民武装や民主化勢力)との間で激しい衝突が続いています。・アフガニスタン紛争
タリバン政権の復権後も、反政府勢力やテロ組織との衝突が断続的に発生しています。・ティグレ紛争(エチオピア)
2020年以降、エチオピア北部ティグレ州で政府軍と現地武装勢力との間で激しい戦闘が続いています。・ナゴルノ・カラバフ紛争
アルメニアとアゼルバイジャン間の領土問題。2020年に大規模な衝突があり、現在も停戦状態ながら緊張が続いています。・カシミール紛争
インドとパキスタン間で、カシミール地方の帰属を巡って長年にわたる対立が続いています。・ソマリア内戦
長期化する内戦状態の中、アルシャバブなどの武装勢力が活動。治安の不安定さが続いています。・コンゴ民主共和国の紛争
東部地域などで、武装勢力や民族間対立による衝突が断続的に発生しています。・中央アフリカ共和国内戦
国内の武装集団間の抗争が続き、深刻な人道危機を引き起こしています。・ナイジェリアの武装勢力紛争
ボコ・ハラムなど過激派によるテロ活動や武装衝突が国内各地で発生しています。・カメルーンのアンゴロフォニック紛争
英語圏とフランス語圏の住民間の対立が激化し、治安の不安定さを招いています。・西サハラ問題
西サハラの帰属を巡り、モロッコとサハラアラブ民主共和国(ポリサウィア)との間で対立が続いています。—
それぞれの陣営に「正義」があり、正義と正義の衝突になっています。どちらか一方の正義を採用して、その基準に従って紛争を処理することはできません。ただ、紛争で女性や子供など弱い立場の人々が犠牲を強いられていることは共通しています。どちらか一方の正義を採用するのではなく、どうしたら笑顔を取り戻せるか、それをみんなで考えるという態度が必要なのでしょう。わずかな歩みかもしれませんが、管理人の場合は、How can we make everyone smile? これをブロックチェーンに記録して拡散させるという行為により、良い方向への働きかけとしたいと思いました。
噓つきは泥棒の始まり、といいますが、身の回りの小さな不正や不公正が、やがて大きなジェノサイドに繋がって行くのだと思います。つまり、身の回りの正義や治安を維持するということです。
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