OP_RETURN報告

自薦他薦を問わず OP_RETURN記録の報告をして相互に鑑賞致しましょう。手動承認により掲載されないことがありますので御了承下さい。

コメント

“OP_RETURN報告” への145件のフィードバック

  1. admin

    Kobayashi Issa:Medetasamo / My New Year’s joy is medium

    小林一茶の俳句、めでたさもちゅうくらいなりおらが春、をopreturnで世界に紹介しました。「うれしさも」で始まるバージョンは口語訳です。

    https://mempool.space/ja/tx/fa6478cb7954817e6acc85a5c49bf7e716f548185ac9e878084fd6e0077f50da

    **小林一茶(Kobayashi Issa, 1763–1828)**は、日本の江戸時代後期を代表する俳人の一人で、俳句を通じて庶民の感情や弱者への共感を表現したことで知られています。

    彼は松尾芭蕉(1644–1694)や与謝蕪村(1716–1783)とともに「俳諧三大巨匠」と称されますが、時代的には芭蕉よりも約70年後に生まれ、蕪村と芭蕉の影響を受けつつも、より個人的で人間味あふれる作風を確立しました。

    松尾芭蕉は、俳句(当時は「俳諧」と呼ばれた)を精神的な修行や自然との一体感の表現として高めた先駆者でした。一方で一茶は、庶民の暮らし、家族、子ども、小動物などに目を向け、身近な出来事に温かなユーモアや哀しみをこめる句を多く残しました。

    たとえば、一茶の有名な句に:

    やせ蛙 まけるな一茶 これにあり
    (Skinny frog—don’t give in! Issa is here!)

    があります。小さな蛙を励ますような口調に、一茶自身の貧しく孤独な人生が投影されています。

    一茶は、人生の苦難(家族との確執、妻子の死、病気)を背負いながらも、2万句以上を詠み、日本の俳句に「人間らしさ」を吹き込んだ存在とされています。小林一茶の職業は、生涯を通じて「俳諧師(職業的俳人)」であり、句作や門弟指導によって生計を立てていました。


    Kobayashi Issa (1763–1828) was one of the leading haiku poets of late Edo-period Japan. He is celebrated for his warm and compassionate style, which focused on the lives of ordinary people and small creatures.

    Issa is often mentioned alongside Matsuo Bashō (1644–1694) and Yosa Buson (1716–1783) as one of the “three great masters of haikai (early haiku),” though he lived about 70 years after Bashō. While Bashō elevated haiku to a form of spiritual and philosophical expression deeply rooted in nature, Issa developed a more personal and humanistic approach. His haiku are known for their emotional honesty, humor, and empathy for the weak.

    One of his most famous poems is:

    Skinny frog—
    don’t give in!
    Issa is here!

    In this short verse, he cheers on a small frog, subtly reflecting his own struggles with poverty, loss, and loneliness throughout his life.

    Issa composed over 20,000 haiku, many of which capture everyday scenes, family life, and the tender side of human existence. Through his work, he brought a deeply human perspective to the world of haiku, making his poetry accessible and emotionally resonant even centuries later.

    Kobayashi Issa’s profession was that of a haiku poet and teacher.
    He made a living by composing poetry, teaching students, and holding poetry gatherings. His role was similar to that of a traveling teacher or freelance writer in today’s terms.


    【俳句】
    うれしさも ちゅうくらいなり おらが春
    (小林一茶)

    【意味と背景の解説(春=新年、文化比較付き)】
    この句は、江戸時代の俳人・小林一茶が晩年に詠んだもので、「うれしいことはうれしいけれど、それもほどほど。これが自分なりの春(=新年)なのだ」という控えめな喜びの気持ちが表現されています。

    ここでの「春」は、現代の3月~5月の春ではなく、旧暦における新年を意味します。江戸時代の日本では、立春(現在の2月初旬)ごろが「年の始まり」であり、**「春」=「新年」**でした。

    当時の日本において、新年は一年で最も重要な祝祭の時期であり、家族で集まり、特別な料理を食べ、新たな年神(としがみ)を迎える神聖な期間でした。これは、キリスト教圏におけるクリスマスや年末年始に相当する重要な行事です。

    そんな特別な時期に、一茶は「自分にとっての春(新年)は、ちゅうくらいのうれしさ」と、飾らず素直に詠んでいます。豪華な祝いではなく、貧しく孤独な生活の中で得た静かな幸福。自分らしい、等身大の新年です。

    なお、この句は彼の遺稿集『おらが春』の表題句でもあり、「おらが春」は「私自身の春」「私なりの人生の節目」という意味を内包しています。

    —-
    Haiku
    Ureshisa mo / chūkurai nari / ora ga haru
    (Even joy— / is moderate at best. / This is my New Year.)
    — Kobayashi Issa (1763–1828)

    Explanation (Spring = New Year, with cultural context)
    This haiku was written by Kobayashi Issa near the end of his life. On the surface, it simply says,

    “The joy I feel is only moderate—but this is my spring.”

    However, the word “haru” (spring) here doesn’t refer to the blooming season, but to the New Year as it was understood in Edo-period Japan. At that time, the calendar followed a lunisolar system, and the year traditionally began around early February with the arrival of spring (risshun).

    In that context, “spring” in haiku often signifies the start of the New Year—a deeply meaningful and sacred time for the Japanese, comparable to Christmas in Christian countries. It was a season for family gatherings, ritual purification, special meals, and hopes for renewal.

    Issa, after a life of personal hardship, poverty, and loss, greets this important holiday not with grand celebration, but with a quiet, restrained contentment. His joy is “chūkurai” (moderate), neither bitter nor ecstatic—just enough. The phrase “ora ga haru” means “my spring” or “my New Year,” suggesting a deeply personal and modest sense of peace.

    This poem also became the title of his posthumous collection, “Ora ga Haru” (My Spring), symbolizing not only the seasonal New Year, but also a spiritual rebirth in his final years.

  2. admin

    Dimidium/51 Pegasi b was the first exoplanet discovered in 1995

    https://mempool.space/ja/tx/630b470e196b4ace13bc23b5bacaaa64e9e7894fda8dc5c96a23ef885733d3ea

    最初に観測された太陽系外の惑星、Dimidium / ペガスス座51番星b / 51 Pegasi b をご紹介する
    op_return を送信しました。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%82%B9%E5%BA%A751%E7%95%AA%E6%98%9Fb

    51 Pegasi b(別名:Dimidium)は、1995年10月6日、スイスの天文学者ミシェル・マイヨール(Michel Mayor)とディディエ・ケロー(Didier Queloz)によって発見された、太陽に似た恒星を周回する最初の系外惑星です。この発見は、太陽系外にも惑星が存在することを初めて実証し、天文学における大きな転換点となりました。​もちろん、惑星ですから、低温環境ということで、地球外生命が発見される可能性も出てきます。地球外生命の探索は、系外惑星の探索でもあるのです。それが画期的に進展したということです。

    発見の経緯
    観測手法:​フランスのオート=プロヴァンス天文台(Observatoire de Haute-Provence)に設置された高精度分光器「ELODIE」を用いて、恒星のスペクトルに現れる微小な周期的変化を観測しました。これは、惑星の重力によって恒星がわずかに揺れ動く「ドップラー効果(視線速度法)」を利用したものです。​
    Wikipedia

    観測結果:​恒星51 Pegasiのスペクトルに、約4.23日の周期で約70 m/sの速度変化が検出されました。恒星からの光をプリズムに通すと、周波数ごとのスペクトルに分解できます。スペクトルは、その光が、どんな元素がどれくらいの温度で発せられたのかを示しています。それが周期的に変化していたのです。恒星の組成や燃焼が周期的に変化するのはおかしいですから、恒星の周りを惑星が公転していることが推測されたのです。これは、木星質量に近い惑星が非常に近い軌道(約0.05天文単位)で恒星を周回していることを示唆していました。​

    発表と確認:​1995年10月6日、イタリア・フィレンツェで開催された学会で発表され、直後にアメリカのリック天文台(Lick Observatory)のチームによって独立に確認されました。​

    51 Pegasi b の特徴
    分類:​「ホット・ジュピター(Hot Jupiter)」型の巨大ガス惑星。​

    質量:​木星の約0.46倍。​

    公転周期:​約4.23日。​

    軌道距離:​恒星から約0.05天文単位(約750万km)。​

    表面温度:​約1,250K(約977°C)。​

    命名:​2015年、国際天文学連合(IAU)の命名キャンペーンにより「Dimidium(ラテン語で『半分』の意)」と命名されました。これは、惑星の質量が木星の約半分であることに由来します。​

    その後の影響と評価
    この発見により、太陽系外にも惑星が存在することが明らかとなり、以降の系外惑星探査の道が開かれました。​

    2019年、マイヨールとケローはこの功績によりノーベル物理学賞を受賞しました。​

    この発見以降、視線速度法やトランジット法などを用いて、数千個以上の系外惑星が発見されています。​

    51 Pegasi b の発見は、宇宙における惑星の存在に関する理解を根本から変え、地球外生命体の可能性を探る研究の礎となりました。

  3. admin

    Ozaki Hosai:Coughing doesn’t change the fact that I am alone.

    https://mempool.space/ja/tx/68cfdc12844caf04a8fb7564a78201b9a1376b19b9e1ff173570779e41698421

    尾崎放哉の自由律俳句「咳をしてもひとり」をOP_RETURN で送信しました。

    尾崎放哉は、近代日本文学において独自の地位を築いた作家・随筆家として知られており、その生涯は激動の時代背景と個人の内面世界との緊密な対話に彩られています。

    1. 生い立ちと青年期
    尾崎放哉は、1885年1月20日に鳥取県邑美郡吉方町(現在の鳥取市吉方町)で生まれました。翌年、一家は鳥取県法美郡立川町(現在の鳥取市立川町)へ転居し、そこで初期の教育や生活を送ったと伝えられています。これらの環境が、後に彼の自由律俳句に見られる独自の感受性や内面性に影響を与えたと考えられています。

    尾崎放哉は、鳥取県内での中学・高等学校教育を経て、東京帝国大学法科大学(現:東京大学法学部)で学んだエリートコースを歩みました。

    1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した後、最初は通信社に入社したとされていますが、すぐに保険業界へ転じました。
    1910年に東洋生命保険(現・朝日生命保険)に入社。契約課に所属し、組織内で着実に昇進していきました。特に、1914年には大阪支店へ赴任し、そこで次長として出世コースを歩んだと伝えられています。1915年には東京本社に帰任したものの、その後1916年に退社を決意します。
    1922年、一高以来の親友の紹介を受け、また新設された朝鮮火災海上保険株式会社の支配人として京城(現在のソウル)に赴任しました。しかし、勤務中の飲酒問題が原因で翌年(1923年)には免職となり、2か月間の入院を経験しています。
    免職後、尾崎放哉は会社員としての職歴を終え、以降は経済的にも苦しい状況の中で自らの文学活動に専念する生活へと転じます。無所有を信条とし、寺男として各地を転々としながら、最終的には小豆島の南郷庵に庵を構え、貧窮と孤独の中で俳句三昧の生活を送りました。

    このように、尾崎放哉の職歴は、保険会社での出世コースの道筋を歩んだ後、個人的な問題(主に酒によるもの)や運命的な転機により、企業戦士としてのキャリアを断念し、以降は詩や俳句に没頭する道へとシフトしました。

    尾崎放哉は、明治・大正という日本が大きな社会変革の中にあった時代に生まれ、幼少期から伝統と近代思想の両方に触れる環境で育ちました。家庭は比較的質素であったと言われ、幼い頃より内面への感受性が鋭く、周囲の時代の空気や変わりゆく価値観に深い興味や疑問を抱いていました。青年期には、当時流行していた西洋思想や文学に触発され、日本独自の文学表現、特に「私小説」や内面を掘り下げるエッセイに目覚め、次第に自らの作家としての道を歩み始めました。

    2. 文学活動と作風
    (1)独自の文体・主題
    尾崎放哉の作品は、その簡潔でありながらも詩的な文体と、個人の内面や存在論的な問いに深く切り込む内容が特徴です。彼は自らの内面と対話しながら、孤独、虚無、そして生の儚さといったテーマを描き出しました。その表現は時に、伝統的な日本の美意識「わび・さび」や、禅的な静寂といった要素を取り入れながら、同時に西洋近代文学からの影響も感じさせる、混合的な作風を持っていました。

    (2)「私小説」的アプローチ
    彼の作風は、個人の体験や内面の葛藤、孤独感を率直に描写する「私小説」の先駆けとして評価されています。自分自身の感情や思索を隠すことなく、あえて露呈させることで、読者に普遍的な人間の存在の問いかけを行っているのです。彼の筆致は、自己探求の過程そのものが芸術となり、後の世代の作家たちに多大な影響を与えました。

    3. 内面的葛藤と時代との対峙
    (1)個人的な苦悩
    尾崎放哉の人生は、その作風にも色濃く反映されるように、しばしば内面的な苦悩や自己疎外といったテーマが中心にありました。自らの存在意義に対する問い、そして社会の規範に対する反発、これらが彼の内面に絶えず渦巻いていたと伝えられます。自省と苦悩の中で、時に独自の解脱や自己肯定の境地へと至るプロセスは、彼の作品群において静かに、しかし力強く表現されています。

    (2)時代背景との関わり
    尾崎が活躍した明治・大正期は、日本が西洋文化と伝統文化の狭間で激しく揺れ動いた時代です。政治的、社会的な変革や、戦争・不況といった苦難の中で、彼は時に社会の矛盾に直面し、その現実に対する鋭い洞察や批判を内面から描き出しました。個人の内面と時代の激変が交差するその体験は、彼の作品に独特の重みと普遍性を付与しています。

    4. 主な作品と評価
    尾崎放哉は、随筆、小説、評論など多彩なジャンルで執筆活動を行い、読者に生きる意味や自己の存在について考える機会を提供しました。彼の代表作のいくつかは、内面的な情熱と冷静な分析を同時に感じさせ、時代を超えた普遍的なメッセージを持っています。
    また、彼の作品は、その文体のシンプルさゆえに、現代の読者にも理解しやすく、多くの文学研究者によって再評価されています。彼が「自己をさらけ出す」勇気ある筆致は、後の「私小説」作家たちに大きな影響を与え、近代日本文学の発展に寄与しました。

    彼の自由律俳句をいくつかご紹介します。

    ・「咳をしても一人」
    孤独というテーマを象徴的に詠んだ句で、彼自身の孤高の感覚が表れています。

    ・「こんなよい月を一人で見て寝る」
    月の美しさと、それを一人で味わう寂寥感が印象的で、尾崎放哉の詩的な感性を象徴する句です。

    ・「一人の道が暮れて来た」
    彼の生涯における孤独や、内面の闇が垣間見えるような一句として知られています。

    ・「墓のうらに廻る」
    懐かしい人の墓に来た。墓石のうらに回って、没年月日や俗名なども確認した。

    ・「足のうら洗えば白くなる」
    一日仕事して帰ってきて、足を洗った。足はすぐに元通り綺麗になったが、私の心の憂鬱は何をしても晴れることがない。

    5. 晩年と遺産
    晩年の尾崎放哉は、かつて抱いた理想や自己探求の衝動をさらに深めると同時に、個人としての孤独や精神的な重圧に苦しむ時期を迎えました。しかし、その苦悩をも作品に昇華させることで、彼は文学的な意味での完成を遂げ、後の世代に「真の自己表現」のモデルとして影響を与え続けています。
    彼の死後、尾崎放哉の作品はその独創性と内省的な深みから高く評価され、現代日本文学研究の中でも重要な位置を占めることとなりました。彼が提示した「生の儚さ」と「自己探求」のテーマは、今もなお多くの作家や読者にとって切実な問いであり続けています。

    結論
    尾崎放哉の生涯は、自己の内面に深く迫る試みと、激動する時代の中での個人の存在の意義を問い続ける闘いそのものでした。彼の文学は、率直かつ詩的な表現を通じて人間の内面世界を豊かに描出し、そのテーマや手法は今日の文学においても色褪せることなく、多くの読者や研究者に影響を与え続けています。

  4. admin

    Santoka:Hitori sunde/Living alone, nothing to throw away

    https://mempool.space/ja/tx/e8e91f1eb67193de06dd91f83dceeb82624babecb34c22041d41fb582481a6a4

    種田山頭火の俳句をop_returnで世界に送信致しました。

    「ひとり住んで捨てる物なし」

    行乞僧だった山頭火さんですが、なんとこれは、仏教の教えのような俳句になっています。

    ひとりで粗末な庵に住んでいるが、貧しい生活なので何でも大切だ。箸でも器でも、ちり紙でも、何でも再利用して最後の最後まで使う。どうしても使えなくなったら燃やして暖を取る。要するに捨てるものなど何もないのだ。思ってみれば、人だってそうかもしれない。捨てるような人なんて居ない。誰にも何かの役割があるだろう。私は旅の行乞僧のまねごとをしているが、そんな私にも何かの意味はあるのかな。私が居なければ喜捨する機会を失った人があるのかもしれない。そう考えると、明日もまた行乞する元気が湧いてくるものだ。

    ところで、この俳句って季語あるんでしょうか。

    どの単語にも季節は感じられません。「ひとり住んで」という寂しい気持ちは秋とか冬を連想させます。出かけないので誰とも会わないんですね。そして、捨てるという行為は、季節の変わり目を連想させる気も致します。そうであれば、秋から冬への季節の変わり目なのかも知れません。冬ごもりの準備で、町の人々は色んなものを捨てて忙しいようだが、ひとり暮らしの自分には捨てるものなど何もない、という事なのかも知れません。

  5. admin

    Santoka:Wakeitte mo/Proceeding through the green mountains didn’t heal me

    https://mempool.space/ja/tx/7564b5d1e4b8ec1ce86d9c83c7fc9653fa60f392a89b848dc9d4dcc019323887

    こちらも種田山頭火の俳句を世界に宣伝したくてop_return送信したものです。

    「分け入っても分け入っても青い山」

    わけいっても→6音
    あおいやま→5音

    ということで、5-7-5ではなく、6-6-5の俳句となります。これでは5-7-5のリズムは無いし、5-7-5の原型を留めないほどに変容されてしまっているわけです。だからこれを俳句に分類することが本来はできない事の様にも思えるのですが、山頭火が俳人なので俳句に分類されているのですね。

    「分け入る」とは、道なき道を行ってる、ということでしょう。「青い山」は、種田山頭火の無季自由律俳句において詠まれているため、基本的には季語とはされません。しかし、どうしても季語として選ぶならば、一般には夏の季語と解釈されることが多いです。

    鑑賞してみましょう

    夏の山を越えている。誰も居ない、けものみちをのぼっている。峠道だが、草が伸び放題で、人の背丈ほどにも伸びている。草いきれで、息苦しいほどだ。草の生命力に満ちているのに対して、自分の気力は意気消沈して対照的だ。放浪の旅で孤独に蝕まれている。草をよけて進んでも、また、草の壁が出現する。草はどうしてこんなに元気なのだろう。ああ、この照り付ける太陽の恵みを受けて茂っているのか。私も草の様に太陽の恵みを受けたいものだ。

admin へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です