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OP_RETURN報告

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コメント

“OP_RETURN報告” への147件のフィードバック

  1. admin

    Hiratsuka Raicho:In the beginning,woman was the sun.

    https://mempool.space/ja/tx/483579ee55e23cab34bca42ae0062c27805368f88a3d84aecb98bab5ea91cb33

    平塚らいちょうの有名な文章をOP_RETURNで世界に送信致しました。自分らしく生きていく、女性も男性も当たり前の目標を、ズバリと提示してくれたものです。現代のイランの女性にも元気を与える文章でしょう。

    平塚らいてう(ひらつか らいちょう、1886年2月10日 – 1971年5月24日)は、日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト、女性解放運動家であり、近代日本における女性運動の先駆者として知られています。

    生い立ちと教育
    平塚らいてうは、東京府麹町区三番町(現在の東京都千代田区)に生まれました。本名は平塚明(はる)で、父は明治政府の高級官吏であり、母は徳川御三卿の一つ田安家の奥医師の家系に連なる家柄でした 。彼女は日本女子大学校(現・日本女子大学)家政学部を卒業し、在学中には禅に傾倒し、慧薫(えくん)禅子の道号を授かるなど、精神的な探求にも励みました 。

    青鞜社と女性解放運動
    1911年、平塚は25歳で女性文芸誌『青鞜』を創刊し、創刊号の発刊の辞「元始、女性は太陽であった」は、日本の女性解放運動を象徴する言葉として広く知られています 。この雑誌は、女性が自らの声で社会に訴える場として、当時の社会に大きな影響を与えました。

    1920年には、市川房枝らと共に新婦人協会を設立し、婦人参政権運動を推進しました。この協会は、女性の政治的自由や社会的地位の向上を目指し、治安警察法第5条の改正運動などを展開しました 。

    私生活と社会的実践
    平塚は、作家の森田草平との心中未遂事件(塩原事件)や、画家の奥村博との事実婚など、当時の社会規範に挑戦する私生活を送りました。特に奥村との共同生活では、結婚制度に縛られない自由な関係を選択し、夫婦別姓や事実婚の先駆けとされています 。

    戦後の活動と遺産
    戦後は、平和運動と女性運動に力を注ぎ、日本婦人団体連合会会長や国際民主婦人連盟副会長を務めました 。また、1963年には新日本婦人の会を創設し、女性の権利向上と平和の実現を目指す活動を続けました 。平塚らいてうは、その生涯を通じて女性の社会的地位向上と平和の実現に尽力し、現代のフェミニズムやジェンダー平等の基盤を築いた人物として、今なお多くの人々に影響を与え続けています。

    平塚らいてうによる『青鞜』創刊号(1911年)に掲載された有名な一文「元始、女性は太陽であった」の全文(原文)は以下の通りです:

    元始、女性は実に太陽であった。
    今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く。
    しかも月はあまりにあまりに柔弱であった。私は新しく生れた
    女性である。自己の力を以て燃え上がる太陽である。自ら光を放つ星である。
    従来、私は男によってのみ生かされていた。
    けれども、今、私は自己によって生きようとする。
    自らの力で生きようとする。
    従来、私は単に家庭のためにのみ存在していた。
    けれども、今、私は社会のために、国家のために、
    世界のために生きようとする。
    私は斯く思ふ心の発露としてこの雑誌を作る。

    この文章は、『青鞜』創刊の辞「青鞜は何を目ざすか」(1911年9月、青鞜社)に収められており、日本近代女性解放思想の象徴ともいえる一節です。

    【英訳 / English Translation】
    At the beginning, woman was truly the sun.
    But now, woman is the moon. She lives by others and shines with light borrowed from others.
    And that moon was far too fragile.
    I am a newly born woman.
    A sun that burns with her own power, a star that shines by her own light.
    Until now, I lived only through men.
    But now, I intend to live by myself.
    To stand on my own feet, to live by my own strength.
    Until now, I existed only for the household.
    But now, I seek to live for society, for the nation,
    and for the world.
    This magazine is the expression of that belief.

    平塚らいてうの名言「元始、女性は太陽であった」は、1911年9月に創刊された女性文芸雑誌『青鞜』の創刊の辞「青鞜は何を目指すか」に記されたもので、近代日本におけるフェミニズム運動の出発点ともいえる重要な宣言です。その文脈と背景を以下に詳しく解説します。

    ◆ 歴史的背景
    1. 明治〜大正期の女性の地位
    明治時代(1868–1912)から大正時代(1912–1926)にかけて、日本では近代国家としての制度整備が進められる中で、「良妻賢母」が女性の理想像として社会に定着しました。女子教育も家庭中心で、女性が「外」で活躍することは否定的に見られていました。

    女性には参政権も、大学教育を受ける自由も基本的に認められておらず、「家庭=女性の本分」という価値観が支配していたのです。法律面では、当時の「治安警察法」第5条により、女性が政治集会に参加することさえ禁じられていました(この条文は1922年に撤廃される)。

    2. 青鞜社の創設とその挑戦
    平塚らいてうは、こうした社会的制約を打破しようと、1911年に『青鞜』を創刊しました。これは、日本初の女性による、女性のための文芸雑誌です。

    創刊に際しての「宣言文」が「元始、女性は太陽であった」で始まる有名な一文です。

    この言葉は、女性が本来的に持っていた自立性や生命力を取り戻すべきだという、強烈な自己肯定の主張であり、社会的規範や制度によって月のように“反射するだけ”の存在に貶められてしまった女性を、再び“自ら発光する太陽”へと取り戻すという思想的挑戦を意味しています。

    ◆ 文学的・思想的文脈
    1. 禅思想と個の確立
    平塚らいてうは若いころから禅に傾倒しており、「慧薫(えくん)」という禅号を持っていました。禅の「自己覚知」「内面の真実への目覚め」といった思想は、彼女の女性解放論に深く根付いています。「自己の力で燃え上がる太陽である」という表現には、禅における「自照」の精神が強く反映されていると見ることができます。

    2. 西洋思想の影響
    平塚は西洋文学や思想にも深く影響を受けており、とりわけイプセンの戯曲『人形の家』(ノラ)が彼女にとって大きなインスピレーションとなりました。この作品もまた、家庭という檻を脱して「自我に目覚める女性」の物語であり、当時の日本における新しい女性像「新しい女(ニュウ・ウーマン)」の原型となります。

    ◆ 社会的反響とその後
    『青鞜』は発刊当初から社会的注目を集め、多くの賛否両論を巻き起こしました。特に、若い女性たちが自らの感情や思想を自由に綴ったことで、「青鞜女」と呼ばれる彼女たちはスキャンダル的に報じられ、伝統的な女性像に反するとして批判されました。

    それでも平塚らいてうは筆を折ることなく、新婦人協会(1920年)などの設立を通じて、法制度の変革や女性の社会進出に大きな役割を果たしていきました。

    ◆ 総括:この一文の意義
    「元始、女性は太陽であった」という言葉は、単なる詩的表現にとどまらず、

    社会における女性の本来的価値の再確認

    他律的な生き方からの脱却(男性依存からの自立)

    精神的・思想的自己確立の宣言

    として、現代でも引用され続ける象徴的なフレーズとなっています。

  2. admin

    Yosano Akiko:Ah,my dear brother,I weep for you; do not die.

    https://mempool.space/ja/tx/42b0315bf8239d993a4f81090ae737c64c804dfe4e31f22e4ead74536675e4e7

    与謝野晶子の有名な「君死にたまふことなかれ」をOP_RETURNで全世界に発信致しました。ウクライナやガザなど、21世紀も戦争が継続している現代にも、いや現代にこそ、重要な意味を持ちます。

    与謝野晶子(よさの あきこ、1878年〈明治11年〉12月7日 – 1942年〈昭和17年〉5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家として明治・大正・昭和期にかけて活躍した女性文化人です。本名は与謝野志やう(しょう)、旧姓・鳳(ほう)。浪速(現在の大阪市堺区)の裕福な商家に生まれました。

    概要と人物像
    職業:歌人・詩人・評論家・作家
    作風:官能的な情熱と個人主義的思想を詠んだ歌風で知られ、「恋と自由の歌人」と称されることもあります。
    思想:女性の地位向上を強く訴えたフェミニズム的視点を持ち、社会批評や教育活動にも尽力しました。
    夫:与謝野鉄幹(詩人、文学運動の主導者)。鉄幹との結婚後、「明星」などの文芸雑誌で頭角を現しました。

    代表的な業績・活動
    ① 歌集『みだれ髪』(1901年)
    彼女のデビュー歌集。情熱的かつ女性の恋情を率直に表現した歌が収められ、当時の文学界に衝撃を与えました。

    代表歌:「やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君」

    ② 与謝野鉄幹との共闘
    「明星」派の中心人物として短歌革新運動を支え、浪漫主義文学を推進。

    鉄幹とともに多くの若手作家を育成(石川啄木、北原白秋ら)。

    ③ 『君死にたまふことなかれ』(1904年)
    日露戦争中、従軍する弟に向けた詩として発表された反戦詩。「君死にたまふことなかれ」は、日本文学史上もっとも有名な反戦詩の一つです。

    内容は母性と平和の立場からの戦争批判で、当時の風潮の中で非常に挑戦的な作品でした。

    ④ 教育活動・女子教育
    文化学院(東京・新宿)の設立に関与し、女性教育に力を注ぎました。

    自身の13人の子ども(うち11人が成人)を育てながら、多くの若い女性の才能開花に寄与しました。

    ⑤ 翻訳・評論活動
    『源氏物語』の現代語訳に取り組むなど、日本古典文学の普及にも貢献。

    平安文学からも影響を受けた洗練された和歌を詠んだが、単なる古典趣味に留まらず、現代的な個人の感情と倫理を探求した点に独自性があります。

    参考歌
    その子二十 櫛にながるる 黒髪の おごりの春の うつくしきかな
    → 若い女性の美しさと誇りを情感豊かに詠んだ歌。晶子の美意識と女性賛美が表れています。

    『君死にたまふことなかれ』は、**1904年(明治37年)**の日露戦争中に発表された、与謝野晶子による有名な反戦詩です。その背景と社会的反響は、当時の政治的・社会的状況を考慮すると非常に重要であり、以下の通り詳しく説明できます。

    1. 時代背景:日露戦争(1904–1905年)
    日露戦争とは?
    日本とロシア帝国の間で行われた帝国主義的利権をめぐる戦争。

    主に満州(中国東北部)と朝鮮半島の支配権をめぐる争い。

    当時の日本は、**「国家総力戦体制」**の萌芽ともいえる形で、国民全体が戦争に協力するよう動員されていた。

    特に、**「忠君愛国」「名誉の戦死」**といった武士道的価値観が強調され、**徴兵された兵士の死は「美徳」**とされていた。

    2. 詩の発表と内容
    発表年:1904年(明治37年)9月、『明星』誌に掲載

    詩の対象:弟・鳳啓助(ほうけいすけ)が戦地に送られたことを受けて詠まれた

    君死にたまふことなかれ
     与謝野晶子

    あゝをとうとよ 君を泣く
    君死にたまふことなかれ

    末に生れし君なれば
    親のなさけはまさりしも
    親は刃(やいば)をにぎらせて
    人を殺せと教へしや
    人を殺して死ねよとて
    二十四までをそだてしや

    堺の街のあきびとの
    家のもんよりいでし君
    いま戦(いくさ)にいきしこと
    世のつねならぬことにしも

    ああまたかへらぬひとのため
    にんげんそだてつくしたる
    母のこころを思ひみよ
    この世ひとりの君ならで
    ああまた誰をたのむべき

    君死にたまふことなかれ

    旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも
    ほろびずとても、何事ぞ
    君は知らじな、あたらしく
    兵にとられて、うまれての
    二十六までの命をすてて
    戦(いくさ)にいくを何ともせず
    ああおとうとよ、戦(いくさ)をやめて
    君死にたまふことなかれ

    詩の主題
    弟の死を嘆く姉の私的な感情を基軸に、戦争への懐疑と人命の尊重を訴える。

    「忠義」や「名誉の戦死」に異議を唱え、「家族の痛み」「個人の命の重さ」を優先する視点は、当時としては極めて斬新かつ異端でした。

    3. 社会的反響と評価
    賛否両論の反応
    種別 内容
    非難・バッシング 愛国心の欠如、非国民と非難される。軍部・保守派からは「国賊視」された。特に「戦場に赴く男子を迷わせる」と批判された。
    称賛・共感 一部の知識人や自由主義者からは「個人の感情を率直に表現した文学的勇気」として評価された。後年の反戦詩や文学に大きな影響を与えた。

    言論と女性の立場
    当時の女性が、公に政治的・軍事的主張を述べるのは極めて異例であった。

    晶子の発言は、「私的感情の表明」でありながらも、明確に戦争政策そのものへの批判を含んでいたため、社会的には非常にセンセーショナルなものと受け止められた。

    4. 歴史的意義と後世への影響
    『君死にたまふことなかれ』は、近代日本における反戦詩の先駆けとされる。

    この詩により、晶子は「情熱の歌人」から「社会派の女性知識人」へと認識が変わっていく。

    太平洋戦争前後の日本でも、再評価が進み、「戦争に疑問を呈する文学」として語り継がれました。

    補足:弟・鳳啓助のその後
    詩のモデルとなった弟は、実際に日露戦争に出征しましたが、戦死せずに生還したと伝えられています。

    総括
    『君死にたまふことなかれ』は、単なる家族への私情にとどまらず、国民統合・戦意高揚の中で押し殺されがちな「個人の命と声」を浮き彫りにした点において、画期的でした。
    戦争の影で苦しむ庶民、とりわけ女性の声を代表する詩として、今なお評価されています。


    【原文】
    あゝをとうとよ 君を泣く
    君死にたまふことなかれ

    現代語訳:
    ああ、いとしい弟よ、あなたのことを思って私は泣いています。
    どうか死なないでください。

    解説:
    冒頭から、戦地に送られた弟への姉の強い感情と祈りが表れています。「死なないで」という言葉を直接的に繰り返し訴えることで、感情の切迫度を高めています。

    【原文】
    末に生れし君なれば
    親のなさけはまさりしも
    親は刃(やいば)をにぎらせて
    人を殺せと教へしや
    人を殺して死ねよとて
    二十四までをそだてしや

    現代語訳:
    末っ子として生まれたあなたは、親からひときわ愛されて育った。
    そんな親が、刃を持たせて「人を殺せ」と教えたでしょうか?
    「人を殺して死になさい」と言って、あなたを二十四歳まで育てたのでしょうか?

    解説:
    ここでは、母性と倫理の矛盾が強く問われています。親の愛情と戦争による「命の使い方」の断絶を鋭く突く問いかけです。

    【原文】
    堺の街のあきびとの
    家のもんよりいでし君
    いま戦(いくさ)にいきしこと
    世のつねならぬことにしも

    現代語訳:
    堺の商人の家から生まれたあなたが
    いま戦争に行っているなんて、
    そんなことが当たり前の世の中であっていいはずがありません。

    解説:
    平和な商家に育った青年が戦争へ行くことの異常さ・非日常性を、社会批判の形で示しています。

    【原文】
    ああまたかへらぬひとのため
    にんげんそだてつくしたる
    母のこころを思ひみよ
    この世ひとりの君ならで
    ああまた誰をたのむべき

    現代語訳:
    ああ、帰ってこないかもしれない人のために、
    人間としてここまで育て上げてきた母の心を思いやってください。
    あなた以上に頼れる人など、この世に他にいないのです。

    解説:
    母親の視点を通して戦争の非人道性を訴える部分です。命が「国家のため」に奪われることの無慈悲さが際立ちます。

    【原文】
    君死にたまふことなかれ

    現代語訳:
    どうか死なないでください。

    解説:
    詩の中心的メッセージの繰り返し。強い感情の再確認と読者への印象付け。

    【原文】
    旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも
    ほろびずとても、何事ぞ
    君は知らじな、あたらしく
    兵にとられて、うまれての
    二十六までの命をすてて
    戦(いくさ)にいくを何ともせず
    ああおとうとよ、戦(いくさ)をやめて
    君死にたまふことなかれ

    現代語訳:
    旅順の城が落ちようと落ちまいと、
    それが何だというのでしょう。
    あなたは、ただ兵隊に取られて、
    生まれてから26年の命を投げ出して
    戦争に行くことを何とも思わないのですか。
    ああ、弟よ、戦争をやめてください。
    どうか死なないでください。

    解説:
    この最後の節では、国家的勝利よりも個人の命の尊さが上であるという立場が明確に示されています。
    旅順攻略という「大義」よりも、たった一人の弟の命のほうが尊いと訴える強烈なメッセージです。

    総括
    与謝野晶子は、公的な戦争賛美の言説とは異なる、きわめて個人的・倫理的・女性的視点から「戦死」への異議を表明しました。
    この詩の力は、時代の空気に逆らって「命の価値」を叫んだ点にあります。


    Do Not Let Him Die
    By Akiko Yosano
    (Translated into English, poetic interpretation)

    Ah, my dear younger brother,
    I weep for you—
    Do not let yourself be killed.

    You were the youngest child,
    Most cherished by our parents.
    Did they raise you with gentle hands
    So you could take up a blade
    To kill another man?
    Did they nurture you for twenty-four years
    Only to say,
    “Go, kill, and be killed”?

    From a merchant’s home
    In the town of Sakai,
    How is it just that you now march
    Into the chaos of war?
    This is no ordinary fate.

    Ah—think of our mother,
    Who raised you with all her soul.
    How could she bear
    To lose the only one she depends on?
    Without you,
    Whom shall she turn to?

    Do not let yourself be killed.

    Whether the fortress at Port Arthur falls or stands,
    What does it matter?
    You are merely swept away,
    Stripped of choice,
    Your precious 26 years of life
    Thrown into war
    Without even protest.

    Oh, my brother—
    Put down your arms,
    Refuse the war—
    Do not let yourself be killed.

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